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ローマクラブより「成長の限界」レポートが発表され、その内容をわかりやすく伝える同タイトルの書籍が出版されたのは、1972年3月2日、今から50年前のことでした。
MITでシステム・ダイナミクスを創始したジェイ・フォレスターは、さまざまな産業や都市などのシステム・モデルを構築し、政策分析を行う手法を確立していました。地球規模の問題を憂慮する賢人グループのローマクラブは、システム・ダイナミクス手法を使って、長期的に成長を続けている人口と物質経済の成長がこの後どのようになりうるのか探求してほしいと依頼します。ジェイは、その要請に応じ、WORLD3モデルの素案をつくり、そこから定量化したシミュレーション・モデルを策定するためのチームを結成します。そのチームのプロジェクト・リーダーとなったのが、当時MIT教官だったデニス・メドウズでした。このチームには、ヨルゲン・ランダース、ドネラ・メドウズなど、世界から集まった新進気鋭の若者たちがシステム・モデル開発に取り組みます。そして、そのうちの主要メンバー4人が書籍を執筆し、とりわけ優れたモデラーにしてコミュニケーション能力に長けていたドネラ・メドウズが筆頭執筆者となりました。
WORLD3モデル
WOLRD3モデルでは、5つの主要なサブシステムの相互作用が探求されます。産業革命以降概ね成長を続ける人口と経済(工業生産高に集約)が、地球の食料供給能力(耕地と収量)、資源供給能力(再生不可能な資源)、そして汚染吸収能力との関係をみたとき、持続可能な将来につながるのか、崩壊するのか、成長の原因と結果を考えるものです。
人口と工業設備資本は、成長を促す自己強化型フィードバック(出生R1、投資R3)と縮小に向かうバランス型フィードバック(死亡B2、減耗B4)の双方がつながりながらも、基本的に自己強化型フィードバックが支配的になりやすいサブシステムです。人口は労働者と消費者を供給し、また建物・製造設備などの工業設備資本は経済成長のエンジンとなります。
増え続ける人口に対して十分な土地と収量によって食料が供給されなければ人は長生きできず人口は減少に転じます(B5)。また、たとえ生産設備があっても、原材料やエネルギーなどの資源が十分に採算可能なレベルで得られなければ、工業生産を続けることはできません(B6)。もし、食料や資源があったとしても、生産活動の結果生ずる汚染を吸収・分解できなければ、死亡が増加します(B7)。一人当たり食糧が足りないとそれを補おうと農業投入物が増やし収量を増やします(B8)が、農業投入物は土壌劣化などの汚染も増やすのでその効果は中長期には相殺されます(R9)。あるいはさまざまな活動や資源の多くを費やすために工業資本への投資率が下がって成長が減速します。これらのループは、全体としては成長に対するブレーキをかけるバランス型フィードバックを構成します。
一般に、一人当たり工業生産高が上がった国では出生率が下がり、人口増加への歯止めとなります。逆に、貧困にあえぐ国では、出生率が高く、人口が増加して一人当たりの工業生産高は上がりにくくなる、貧困と人口の悪循環をもたらします(R10)。工業生産高の一部を保健や教育のサービス資本に割り振ることで、教育・避妊技術を普及させることで出生率を下げ(R11)、あるいは保健サービスを充実させて死亡率を下げる(B12)ことができます。しかし、これらの人口安定へ向かうまでには時間的遅れを伴います。
シミュレーションが示すこと
このプロジェクトでは、1900年から1970年の地球規模での実データで較正したグローバルモデルを策定し、その後2100年までどのような変化が起こりうるのか、十四のシナリオが検討されます。ここで重要なのは、これらはそれぞれの想定に基づくシナリオであって、予言ではありません。ただ、それぞれのシナリオで成長にどのような影響が出るかを探求するものです。
標準シミュレーション(下図)では、現状の政策に対してなんら介入せず、そのままなりゆきを続けるシナリオです。このシナリオでは21世紀の前半のどこかで再生不可能な資源が減少するために、資源獲得により多くの資本を割り当てるため、やがて工業生産設備の追加投資が減耗を下回り、生産能力の低下で財やサービスの供給能力が下がっていきます。それに従い、食料、そして人口も減少します。
そのほかのシミュレーションでは、そのような状況ではどのような政策が追加されるかを検討します。(シナリオの番号は、『成長の限界 人類の選択』でのバージョン)
2:資源危機を乗り越えるために、資源発見に力を入れ潜在的な資源を2倍に想定する
=≫汚染が地球の処理能力を超えるため、死亡率が上昇して人口・経済減少へ
(図は再生不可能な資源を2倍とするシナリオ2を示す。「汚染の危機」に陥る)
3:汚染の危機を乗り越えるために、2に汚染除去技術の推進施策を追加する
=>ピークはやや先になるが、汚染と食料生産の限界のために人口・経済は減少へ
4:食糧危機を乗り越えるために、3に土地当たり収量増加の推進施策を追加する
=>ピークはやや先になるが、土地浸食のために食料生産が限界を迎え、人口・経済は減少へ
5:土地浸食危機を乗り越えるために、4に土地浸食軽減技術の推進施策を追加する
=>2070年頃まで高水準を保つが、資源不足と多くの危機が組み合わさって人口・経済は減少へ
6:資源不足を乗り越えるために、5に資源節約技術の推進施策を追加する
=>さまざまな費用増加のために、工業資本は21世紀前半に低下、最終的に生活水準も下がる
結局のところ、指数関数的な成長を続ける限りにおいて、限界は次から次へと層状に訪れ、市場や技術で解決しようとしても、コストの上昇と設備投資が工業資本の再生産の自己強化型フィードバック以外の用途により多く割かれるために経済や人口は減少に向かう、というのがこれらのシミュレーションの結果です。そして現実に比べると楽観的な想定として、グローバルモデルとして地球規模で施策の目指す資源量や技術改善が実施され、市場も機能し、そして政治が資源や食料の分配を滞りなく再分配するという前提にたっていながらも、21世紀の終わりまで人口と成長が持続するシナリオは見いだされませんでした。
一方、持続可能な経済社会のシナリオも提示されました。それは、人口と一人当たりの工業生産高の成長に自らブレーキをかけて安定させ、さらに資源発見、汚染除去、収量改善、土地浸食軽減、資源節約の技術を推進することをすべて行うものでした。これによって、人口及び工業生産は、ほぼ2020-30年のレベルで安定する結果となりました。定常経済の状態とも言えるこのシナリオでは、需要サイドと供給サイドの双方で総力戦を行うことが求められますが、それによって地球環境への資源、汚染の負荷も軽度で収まり、世界で分け合う食料や豊さも高いレベルが維持されます。
「成長の限界」のインパクト
(写真は、発刊当時のWORLD3モデルのストック&フロー図)
「成長の限界」は、3000万部以上に及ぶ世界的なベストセラーになって、その後の環境・社会運動に大いに影響を与えます。1972年にストックホルムで人間・環境経済会議が開かれて、環境運動を活性化し、環境庁・省設設置や環境規制などを後押ししました。10年後、フルブラント委員会から「持続可能な開発」の概念が大きく打ち出され、20年後にはリオ・サミットが開催され、「気候変動枠組み条約」「生物多様性条約」が締結され、一部企業は環境負荷を削減するだけでなく、環境にポジティブな貢献を目指すようになっていきました。
30年後の2002年、ヨハネスブルグ・サミットの頃からは、企業がサステナビリティ報告書を出す方向に向かい、日本ではCSR報告書と呼ばれることが多くありましたが、環境だけでなく、人権や平等などの人権面にも目に向けるようになっていきました。
40年後の2012年の国連サミットでは、それまでのミレニアム開発ゴール(MDGs)の後に続く政策の方向性として、「持続可能な開発目標(SDGs)」の構想が打ち出されます。その3年後の2015年にはSDGsが批准されて、今にいたっています。持続可能性(サステナビリティ)とは、「成長の限界」で示された、行き過ぎた成長の結果、減衰あるいは崩壊に向かうシナリオを回避するためのものです。永続的に人々がニーズ充足に必要な手段を確保するために地球環境や社会の基盤を護り、また、そこから得られる有限のリソースを現世代と将来世代のより多くの人々の幸福実現のために適切な配分を目指すのがサステナビリティです。
こうした環境や持続可能性に向けた動きをもたらす一方で、「成長の限界」に否定的な見方を示す向きも多くありました。但し、その多くは、本の中味を実際に吟味することなく、成長が可能ではないことを示唆することへの反発も多かったようです。政治家や経済学者として、成長そのものが永遠に続くことは物理的に不可能だということに向き合うことは、これまでの政策や経済理論の前提を脅かすものでもあったからです。
マルサスの人口論では、人口の成長の限界が食料の不足によってもたらされると考えていました。その制約に対して、人工窒素の技術が実用化されることによって、限界を乗り越えることに成功しました。こうした実績は、多少の問題も技術が解決してくれるという楽観論の根拠にもなっています。一方で、人工窒素の量は自然界に存在した量の3倍に増え、世界の河川、湖沼や湾岸に富栄養化の被害をもたらしているだけでなく、たとえ短期に収量増加する場合でも中長期には土壌を劣化させ、農地としての活用できない状態にするペースを高めています。他の要因も合わさっていますが、人工窒素が主な駆動要因となって、今までに中国とインドの国土を合わせた面積で土壌劣化が進み、収量が期待できない土地が増えています。システム的に見れば、まさに今日の解決策が明日の問題を生み出し、効果が相殺される状況となっています。
その後のグローバルモデル
成長の限界のWORLD3がグローバルな統合モデルであり、また、資源、汚染などが一つの変数として扱われていることに対して、科学の世界では多くの進展がありました。例えば、1972年時点では明示されていませんでしたが、現在の世界のもっとも深刻な汚染問題の一つは、気候変動でしょう。大気、水質、土壌の汚染は、ローカルにその影響を受ける故に、自治体や国単位での対策も進みやすく、悪化すれば対策をするフィードバックが働きやすいです。しかし、CO2その他の温室効果ガスによる汚染は、グローバルな規模のものであり、地域差のある中で簡単には解決できない汚染問題の代表的なものです。これまでに、気候変動のグローバルモデルは多くの研究機関によって発表され、日本の科学者チームのその最先端で活躍しています。
ウィリアム・リードとマティス・ワクナゲルは、エコロジカル・フットプリントという概念を発案し、人間の活動の付加の総量が、地球の扶養能力に対してどれくらいになっているかを示します。現在では、人間の活動は地球の扶養能力の1.75倍となっています。これは、家計収支に例えるならば、年金や利息で入る収入で生活できる範囲を超えて資金の元本を食い潰しているか、あるいは、将来の子どもや孫の生活を質に入れて前借りをしている状態であることに相当します。
2009年には、ヨハン・ロックストロームらによって「プラネタリー・バウンダリー」という概念が発表され、地球の供給源あるいは吸収源の限界に対して、どれくらいの負荷を人間がかけているかを定量化しました。気候変動、生物多様性、窒素循環ではすでに限界を超えており、またその他の多くでは今のなりゆきでは早晩限界を超えることが示されています。エコロジカル・フットプリントにしても、プラネタリー・バウンダリーにしても、成長の限界で示された主訴を否定するものではなく、科学の進歩に従って、より具体的に、また多くの分野で限界を超える人間の営みが明らかになっています。
環境の上限がのしかかる一方で、世界でも日本でも、最低限の生活水準に必要な、水、食料、エネルギー、教育、住居、政治参加などへのアクセスができていない人たちがまだ数多く残っています。有限の限界の中で無限の成長はできませんが、未だ十分なリソースへのアクセスや最低限の生活賃金、生活水準に満たない人たちへ、文明発展の恩恵を届けることはまだまだ求められるところです。こうした概念を提唱したのが、ケイト・ラワースのドーナッツ経済学です。
私たちは世界全体としては、プラネタリー・バウンダリー、つまり資源や汚染吸収の限界の範囲内に人間の営みを押さえる必要があります。同時に、人の権利として認められる最低限のリソースや機会へのアクセスを、いかにより多くの人たちに届けることができるか、取り残される人の数をどれだけ減らすことができるかが問われています。
新古典派経済学では、一部富める人たちの経済成長は、スピルオーバー効果をもって社会全体を底上げすると主張してきました。残念ながら、この主張は多くの国では幻想に過ぎず、底上げに成功したのは共産主義の中国と、そして強制的な富の再配分をトップダウンで行ったシンガポールなどごく一部に限られます。つまり、富める者はますます富を求め、また自分の子息たちに努力を要せずそれを引き継ぐことを求めるために、スピルオーバー政策はほとんど機能せず、むしろ今日の経済格差を助長してきました。
成長の限界から50年:私たちのチャレンジと選択
成長の限界から50年、私たちは極めて難しい舵取りに直面しています。個々の人、あるいは組織の立場で言うならば、成長は重要な原動力です。しかし、地球全体から見ると、すべての人がそれを求めると地球の扶養能力を超え続けるというジレンマです。
先日、ある会合で、「人新世」における経済のディスカッションの場に居合わせました。新進気鋭の経済学者が、これまで主流を占めた新古典派経済や環境経済学の政策に疑問を投げかけ、脱成長と社会システムの変容を求めました。それは極めて論理的で説得力のあるものでした。しかし、個別の労働者や会社の立場で見ると、給与のアップや売上、事業規模の拡大なくして、一緒に働く仲間のモチベーションを高めることが難しくなります。地球規模では有限な限界の範囲で、永遠に成長を続けることは不可能であると告げられても、一方で、成長が続かないという現実は極めて不都合であり、またそれに伴う調整は労働や事業などにおいて大きな不安定をもたらすだろうとの不安が大きくのしかかるのです。
ここにシステム的な課題の難しさがあります。一個人や一組織が、モノの購入利用や事業規模を増やすこと自体に問題があるわけではありません。現実に人口や経済規模が小さかった頃にその問題を感じることがありませんでした。しかし、人口が16億人だった1900年頃であれば何の問題のなかったことも、その5倍近くの人口をもつ今日においてその影響は比較になりません。これが、システム効果です。個々としては、問題の無い行動も、多くの人が同じ行動をとってその絶対量が増えるとその基盤が成り立たなくなるという問題です。「人新世」という概念は、それまで人間が何をしても母なる地球の規模にしてみれば取るに足らないと考えられていた人間活動の影響が、指数関数的な成長を重ね桁違いの規模となって、ついには地球の気候や地形を変えるほどにまでなってしまった時代を指ししめす言葉です。
この50年間だけでも、人口は2倍以上、世界GDP(実質ベース)は約4.5倍、そして資源や汚染の量もGDPにほぼ近いペースで増えてきました。それによって、地球環境への再生不可能資源の利用負荷や汚染は、いくつかの分野ですでに限界を超え、他の分野も限界がもうすぐ見えるところまできています。今後成長を続けるということは、たとえ年率2%成長であったとしても、今後35年で今の2倍に、70年で今の4倍になります。そうなると、21世紀の後半には層状の限界、多重な危機が訪れるのを回避するのは難しいでしょう。
この状況を切り抜ける方法は、すでに多く話し合われています。例えば、再生可能資源へのシフトとその持続可能な利用、リデュース、リユース、リサイクルなどの循環型経済や再生型経済、資源効率の向上あるいは脱物質化などです。物質利用と経済のデカップリングは必要性が叫ばれ、相対的デカップリングはゆっくりとは進んできました。しかし、今後持続可能な未来を築くには、まだ不十分です。危機感をもって、短期的には今ある技術の急速な普及を図ると共に、長期的な技術開発を図り、そしてこれ以上の環境破壊や吸収能力を超える汚染を急速に減らすことが必要でしょう。
また、目的や目標を問い直す動きが進んでいます。経済に関わる人にとっては、誰のための、何のための経済か、です。株主志向からより広くステークホルダー志向へ、事業の財務価値だけでなく、より広範な経済、社会、環境価値を出すことへの転換は進んでいます。また、暮らしのウェルビーイングや幸福を企業に頼るのではなく、コミュニティの中での社会関係資本を強め、健康や教育のための人的資本を強め、自然資本を護りながらその恩恵の範囲内で生活していくようなライフスタイルや社会のあり方への移行やミックスが、日本国内でも世界でも進んでいます。今後、こうした転換をシステム規模で展開する必要があるでしょう。
私たちに必要なのは、有限な地球というコモンズを、現世代の80億人近くの人たちと分かち合い、あるいはこれから生まれてくるであろう未来世代の人たちとも分かち合って行く必要があります。今の時代、私たちが難しい現実に直面しているのは間違いありません。今、不安や不快を先送りにできるが物理的に実現不可能な世界を志向するのか、それとも不安や不快と向き合いながらも物理的に実現可能な社会の構築を目指すのか? 成長の限界の投げかけた問いかけは、50年たった今、さらに差し迫ったものとなって私たちに選択を迫っているかもしれません。
(小田理一郎)